北海道札幌市在住の野嶋さん(50代)は15年ものダブルケアを乗り越え、現在は平穏に日々を過ごしています。今回は、壮絶だったダブルケア体験を語ってもらいました。
2000年.野嶋さんの父親は雪道で転倒して頸椎を損傷し、首から下が動かなくなり、寝たきりになってしまいました。当時、野嶋さんは横浜で夫と幼稚園に通っていた子供2人と暮らしていました。父親を地方の施設に入れたくないという想いから、夫に転勤願いを出してもらい、家族で札幌に引っ越したそうです。
北海道の自宅をバリアフリーの二世帯住宅に建て替えて、父親の在宅介護をしていました。父親の介護は主に母がしていて、私は見守りの立場でした。父は、トイレに行くことに凄くこだわっていて、夜中も関係なく、だいたい3時間おきにトイレの補助に呼ばれるような、そういう状態でした。
そんな父親の介護中に、今度は母が突然倒れてしまいました。野嶋さんは、これ以上の在宅介護が難しくなり、ケアマネージャーに頼んで、一旦父親を病院に預かってもらうことにしました。父親の入院先には野嶋さんの妹が毎日面会に行き、野嶋さん自身は母親の入院先に毎日朝晩2回ずつ通ったそうです。
その後、野嶋さんは、母親の在宅介護をすることになりますが、この時期が一番辛かったと語っています。両親の介護は6年間、その後母親が他界してから父親の介護を含めると、トータルで15年間も介護と子育ての両立した生活は続きます。
生活はすべて誰かのケアでした。夫は、仕事に忙しく専業主婦の野嶋さんが介護や子育てのほとんどを担っていました。ある頃から、母親には軽い認知症となり、作話をするようになっていました。野嶋さんは、母親に怒鳴りたくなかったし、怒りたくなかった想いから、とった手段が、口をきかないことだったそうです。
そして野嶋さん自身も、体調を崩していきます。1日の食事は食パン1枚も食べきることができず、立っているのもやっとな状態だったそうです。介護と家事以外はソファーに横になっている時間が殆どで、この間に体重は10キロも痩せました。
自分が痩せていることにすら気づかなかったそうです。両親、育児、そして家事のダブルケアによって自分自身が壊れてしまいました。最終的に、ケアマネージャーが提案してきたのは、母親を長く入院できる病院に入院させてはどうかということでした。
野嶋さんは、母親が自宅に戻ってこられなく可能性を考えて、その提案を嫌だと感じていました。しかし、悩んでいる最中、なにを勘違いしたのか母親は自分から病院に電話して、勝手に入院を決めてしまったそうです。
母親は、心臓が悪くて入院慣れしていることから、軽い気持ちで入院したのだと野嶋さんは思いました。とはいえ、母親の行動に困惑したと言います。そして、母親の病院では、お金を払いに行ったり、洗濯物を取りに行くときに、母親の同室の人から「もっと来ないとダメだよ」と、お叱りを受けるようになりました。
限界の中で言われた同室者の声はさらなる精神的な負担になり、野嶋さんは、母親の入院している病室の前まで行っても、病室の中に足を踏み入れることができなくなりました。結局、母親とは会わなくなり、しばらくして、母親の入院する病院から連絡があり母親が危篤であると告げられます。
母親が亡くなった後、病院に長期入院していた父親に自宅に戻る提案をしました。しかし、父親は自宅には「戻らない!」と頑でした。それは、ボロボロだった娘への愛情が、そうさせたのかもしれないと感じたそうです。
その後、父親とは生活をどうしていきたいか、本音で話すことができたそうです。母親が亡くなった後の父親との時間は、癒される部分は大きく、それが次のステップに繋がったと野嶋さんは穏やかに語っていました。
最後に、こうして15年間に及ぶダブルケアを経験した野嶋さんから、ダブルケアに苦しんでいる方たちにメッセージをもらっています。介護は、ひとそれぞれに違いもありますが、こうした先人の経験から学べることもきっとあると信じています。
私は、介護のことをほとんど他人に話さずに来ました。ダブルケアは経験している人も少ないので、実際に、誰かに話してみる気にならないということもあるでしょう。ですが、苦しい現状を口に出してみることで、一緒に考えてみようと言ってくれる人はいるかもしれません。
介護と育児のダブルケアに直面している人は、自分でこなせる以上の責任を抱えやすく、心身ともに負担がかかりやすくなります。しかし、他にかわってくれる人もいないわけですから、どうしても、ダブルケアでは、自分のすべてを投げだすことになりやすいです。
最近、やっとダブルケアの介護者に対する支援の必要性についても、認識が広がりつつあります。が、やはり、介護をされる人だけでなく、介護をする人のことも、社会から守られるべき存在であるという意識が、もっと社会に広がっていって欲しいと思います。